昭和43年07月04日 朝の御理解



 御神訓の中に信心の心得というのがありますね。信心の心得これはなにをして頂いてもやはりその心得というものが大事です。商売人には商売人の心得というものがある。お百姓さんにはお百姓さんの心得というものがあるだろうと思います。だから信心をさせて頂くものは信心させて頂く者の心得というものがなからなければ信心が分かりません。信心が進みません、いや信心によって助かるということはできません。
 信心の心得というものがまずなからなければね。私は今日程信心の心得というものを一遍読ませていただきながら、ははあ信心の心得とこりゃもうたいしたことだなあ、この信心の心得というのがもう何か条ありますでしょうかねえ、何十節かあるですが、もうどの一言だっておろそかに出来ない事ばっかり。この信心の心得というものが段々出来て来ると言う事成程先日から頂くように、人間が立派になるというのと。
 良い氏子になる、よい信者氏子になるということが違うということをいよいよ感じさせられますね。良い人間になるというのと良い信者氏子になるというのとはもう全然の違い、良い信者氏子になる、良い信者になる、よい氏子になると言う事はと、いわばこの信心の心得がですね身について来る、信心の心得というものが身について来る信者を私は良い氏子であり良い信者じゃと思うです。
 例えばどのように素晴らしい人間に成長いたしましてもですね、ならその御教の一つ拾ってみましてもですね、良い人間になると言う事と、是は例えば真に有り難しと思う心すぐにみかげの初めなり、なんていうものは全然ないでしょ。立派な人間になると言う事の中にはそういう条件はないでしょう。ところがね良い信者になる良い氏子になると言う事にはこれが必要なんです、是が身につかなければだめなんです。
 真の道に入れば第一に心の疑いの雲を払えよと、是なんかでもその立派な人間になると言う事なんかとは全然違うでしょうが、けれども良い信者氏子になる為には段々段々疑いの雲というものが払われて来るのですよ。ですから私今日はねこの信心の心得のもう一遍この全部をね、一つあのよくよく読ませて頂いてですね、どれが自分のものになっていきよるか、いやどの程度に自分のものになっていっておるかと言う事をです。
 ね、この信心の心得をみながら自分の心と一問一答してみるとですね、ははぁ自分の信心がこの辺の所迄しか頂いてないなぁ、してみるとこのくらいな良い信者氏子でしかないなあということが分かるです。そうでしょうが、私今日それはしみじみ感ずるです、だから今日はですね、一箇条一箇条ではなくて信心の心得ということなんです、まぁいうならこの信心の心得が何十か条でています。
 その何十か条がいつの間にかですね、いつの間にか完璧とはいえないけれどもいつの間にか出来ておる。まあこの朝の御祈念にでもお参りになる方はですね、是ずうと読んでご覧なさいませ。なんとはなしに出来て来てきよる、だから是が愈々本当のものにさえなっていきさえすればいいんだなあと言う事が感じなさるだろうと思うんです。この信心信心をさせて頂く者の心得というものを、抜粋してあるわけですねえ、
 このどの一か所を読ませて頂きましても、はぁ成程信心をさせて頂くならこの心得がいつの間にか自分の身に付いていかなければいけない、自分のものにならなければ自分の血に肉にならなければいけないと言う事が分かるが、ならここで10年も信心をしている者ならね、完璧とはいけないけれども、是が段々自分のその内容に成って行きよると言う事が有難い。成程良い信者氏子にお取りたて頂きよるなあと言う事が分かる。
 そして思う事、ね、成程良い人間になると言う事と良い氏子になると言う事は全然違うと言う事を今日は改めてまた感じます。立派な人間になったんではおかげにならんのですよ、立派な信心してそんな事で良いかなんていうけれどですね、立派な人間と言う事はおかげには関係はないです。日頃信心の稽古をさして頂きながらその心得がいつとはなしに自分の心の上に、いわゆる自分の信条。
 自分の財産になっていきよると言う事がなんというても有難い事だなと、その事がほんとにお礼が申しあげれるお蔭を頂かなければならない。まあここん所を初めからね読ませて頂きましょうかね、「信心は家内に不和のなきが元なり」「真の道に入れば第一に心の疑いの雲を払えよ」「真に有り難いと思う心すぐに御陰の始めなり」「神徳を受けよ人徳を得よ」「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」
 「我が心で我が身を救い助けよ」「信心する人は何事にも真心になれよ」「真の道を行く人は肉眼を置いて神眼を開けよ」「神の恵を人知らず親の思い子知らず」「神信心のなき人は親に孝のなきも人の道を知らぬのも同じことぞや」と。どんなに立派なたとえば人間であってもね信心のこういうものが付いていないならば、それは人の道を知らんのも同じことであることが分かります。
 この何十か条、どの一箇条を見てもそれを感じますね。皆さんこう思うてみなさい、それがね完璧に自分のものになってないけれども、どれでもこれでも少しずつは自分のものになっていきよるということは有り難いと思う。だからそれが自分のものになっていくことの為にお互い信心の稽古、精進をさせてもらうのですね。今日その中の折角ですからね、ここん所を頂こうと思うんです。
 「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」「我が心で我が身を救い助けよ」。この2箇条をひとつ分かっております、知っておりますけれども、是をもっと深く頂いてみたいと思うんです。「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」。だれでも生きたくないというものはないですね。だから養生するわけです、治療をする訳です。けれどもここには生きたくば医者に掛りて薬を飲んで長生きをせよとは書いてないですね。
 ここんところをしんじんで頂かなならんですね。「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」と仰言る。だから神徳を積むことに一生懸命になったらいいんです。神徳を積んで行くということにはもう様々なことがある。それは日頃教えを頂いているとおりなんです。だから例えばね、病気なら病気でもしたごとあるなあという時にはねえ、さあ医者じゃ薬じゃなんてあわてふためかずに、ね。
 こりゃ徳切れじゃとまずは思わないかんです。又徳を受けよという神様のお声であると思わないかんです。さあこれで一つひと徳積ませていただくぞと昔の人はそういうふうに申しましたねえ。一つの問題なら問題が起きて難儀なことが起こってまいりますと、さあこの問題でひと徳受けるぞ、そういう生き方なんです。是から外れたらお蔭は受けられんです。いいですか、これが信心する者の心得なんです。
 なんかちょっと心配事があるともう誰にたよらなならん、かれに他よらなならん。ね、神様にすがる事は忘れてから人にたより者にたより医者じゃ薬じゃにたよってしまう。これじゃ信心させて頂く者の心得というものの心得ていないと言う事になるじゃないですか。ね、「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」、まああ言うならば億万長者になりたいならば神徳を積みて億万長者になれよという事でもあるわけですよ。
 だから神徳を積みてというところに一つね、それが中々常日頃こうやってしんじんさせて貰って、段々信心の徳も積んでいきよるつもりだけれども。中々積みよるようだけれども片っ端から、ね、例えば今日一日百円かた働いたらもう百円がたは飲んだり食べたりしとるからもうちゃんとお仕舞いになってしまっとう。今日の徳積みはもう今日の事で終わってしまっておる、というのがまあ私共の普通じゃあないかと思う。
 そこでならそこに特別な事、何かが、ね、そこに難儀な問題なら難儀な問題というものを感じる時、例えば私でいうならばです、ね、もういよいよ食べるに食がない、着るに着物がない、といったような時ですね。そういう難儀をもう直に感じる時に私はもし私が徳を積んだとするなら、そういう時に積んだんだろうとこう思うですね。ですから信心させて頂いている者が何かそこに難儀を感ずる時こそが。
 神徳を積ませてもらう良いチャンスンなんです。それをその難儀の中から助けて貰いたい助けて貰いたい、早く楽になりたい早く楽になりたいと言う事では、徳積みにはならんです。おかげをよし受けましても。その難儀さあこの事でひと徳受けるぞ、是なんです、信心さして頂く者の心得というものは。まあ小さい問題でいうならば寂しい思いをする、腹の立つような事がある、いらいらする。
 そういう事によってです、私は徳を積むとね。腹が立つこれポンと言うてしまえば自分も楽になる。けれどもそれは結果においてはなんにもなっとらん、いかにも相手が言うことを聞いたごとあるけれどもなんにもなっとらん、所謂なにもなっとらんという事は何の徳にもなってないと言う事。けれどもそれをですねじっと自分で押さえて、金光様、金光様、金光様で自分の心の中に押さえて、押さえておるうちにです。
 その元が分かって来る。ね、言いたいことは明日言えといった言葉がありますが確かにそうです。言いたい、けれどもそれを一日押さえて明くる日になると言わんですむことが多いのに驚きます。だから信心はそれだけではなくてです、ね、言わなおられにょうな時に徳を積むのです。所謂、金光様金光様でお縋りさせて頂いてです、ね、その腹の立つその元というものが、相手のそれではなくて自分の心の方にあることが。
 もし分からせて頂いたら、腹を立てる段じゃあない事に成って来てお詫びをしたりお礼を申し上げたりという心が生まれて来るのです。それがそのまま徳になるのです「生きたくば神徳を積みてと」だから先ず神徳を積む事を先に考えさして貰い、次に「我が心で我が身を救い助けよ」と。ね、自分の身を救い助ける者は自分の心です。それを神様のおかげで神様に救いを求める四神様が二代金光様が仰言っておられますよ。
 おかげは神から出ると思うな、氏子の心から出るものぞとおっしゃっている。我が心で我が身を救い助けなければいけません。心配焦燥、腹立ち、ね、ねたみそねみ疑いもしそういうような私は心の状態であったら、これはもう地獄に行っとるとと同じですよ。どんなに金が沢山あってもどんなに金ぷんを身にまとっておっても、どんなに百味の御食の御馳走を頂いておっても、ね、
 心配焦燥、イライラです、腹立ちあれがあげな風にしとらせんじゃろうかと疑う。そう言う様なね、ありとあらゆる自分の心をさいなむ、責めるような、是なんかは自分の、生きたくば神徳を積みて長生きをせよじゃなくて自分の命を縮めておる様なもんです。ね、自分のおかげの範囲、自分のおかげの世界というものをせまーくしていっておるようなもんです。疑わしいなら自分自身が、誰からでも疑われんで済む、自分になる事にならないかんです。ね、
 心配で心配で堪らんなら自分が心配をかけておる、かけんで済む自分にならにゃいかんです。もう子供のことが心配で堪らん。ね、そんなら自分自身がね、自分自身が神様に御心配をかけておる様な、自分ではないかと悟らないかんです。疑わしい自分が疑われんで済む様な自分にならにゃいかんです。不思議なんですよ、そういう精進そういう信心をさして頂いていると疑いがなくなってくる、心配がなくなってくる、ね、
 勿論イライラがなくなって来る、腹立ちがなくなって来る。私は我が身が救い助けるとはそう言う事だと思うんです。それは嘘じゃない、そういうおかげが受けられるのが信心なんです。ね、そこで教祖は「心配する心で信心せよ」とこう仰言る。ところが中々そこまでいくのには中々至難である、難しいんですけれども、さあ心配で心配で堪らんなら、心配で心配で堪らん程の思いで勢いでです。
 心配で堪らんならば、心配で堪らん程の信心をせよ。今日ね私ある人がこう何かをからっているんです。まあ50斤位あるじゃろうと思われる様な物を担いでいる。所がやっぱり中々難しか、それを半分に分けて両方に天秤に担いだ、丁度一様に25斤ずつかろうた。そしたら楽にこう楽しそうに歩いている所を頂いた。私はね信心はここだと思うんです。例えば50斤なら50斤、100斤なら100斤の心配があるならね。
 50斤の心配があるならばね、50斤の信心をしにゃいかんです。これは丁度自分の50斤の難儀をね、心配なら心配をね、二つに割るようなものです、しかもその天秤の調子というがですね、実にこうなんていうですかね、リズミカルなですね。その担ぎ方が出来るでしょうが、今の方達は知らんでしょうね、天秤でこう物を担うていくといったようなことしませんから、けれどもそんなもんだと私は思うです。
 かえって何も持たずに歩いておるよりもですね、返って調子がいいくらい。ね、なにかこう担いで歩くということは。それがね、自分の分に過ぎた、自分が100斤しか持てないのに200斤も担がんならんなら苦しい。けれども神様がね、決してその氏子が持てんものを持たせなさるはずは絶対ないということですね。もう私がこのように苦労しとると自分が一人のごと思うけれどもですね、そうじゃないです。
 信心をさせて頂くとですね、自分に持てれる力し与えちゃないです。それを唯自分だけ一人で持っておるから、唯きついだけのこと、ね、それを悲観的に見るだけのこと。それでそういう例えば50斤なら50斤の心配があるならば50斤がたの修行する、50斤がたのいはば信心をする。それは丁度50斤のものを25斤ずつに分けて天秤で担ぐようなもの。ですからまあだ心配の方が勝っとるなら。
 まちっと信心の方を本気になって力を入れることですよ、ね。それでも不安であるならもうひと修行さして貰うことですよ。それを心配であるとね、頭どんばかり抱えとるちゃんと、これじゃいよいよ、ね、心配がいよいよ伸んでいくようなものです。先日からの御理解のように金が足りんなら金が足りんという心配をです、頭を抱えこんだだけでおったら所謂心配が心配を生む、自分がおこもさんになってしまう。ね、
 薦をかぶってしまう、湯川先生はそういう風に言うておられる。病気をする、いやこれで私は死ぬとじゃなかじゃろうか、もう自分で墓の穴を掘っておるようなもの、自分で墓穴を掘るようなもの。ですからそういう例えば難儀をね、その直面した、難儀ができたらです、できたらできた程に私は神様へそれだけの信心をさしてもらわなにゃいけん。そこから生まれて来る安心。
 「我が心で我が身を救い助けよ」と信心の心得のなかにある。果たしてお互いがです、我が心で自分の我が身を楽うに救い助けておれておるだろうか。所がお互いおれておるのに驚くぐらいです。是が信心がなかなら大変な心配じゃろうと言う事を信心さして頂いているおかげでここに楽にお参りしておれると言う事は信心のおかげによって自分の身を救いたすけておる訳。けどまだまだ完璧とわいえないん完全ではない。
 そこんところがもう一段と信心を進めていくところにです、ね、自分の身を救いたすけさしていただけれる、いわゆる天秤である。天は平たいとね、いわゆる平生心である。こういう例えば難儀があるなかに、こういう苦しいことが普通でいえばある中にです、それを苦しいことも思わず困ったこととも思わんですんでおるということは、それを平生の心でおれるということはなんと有り難いんことじゃろうかと。
 こう有り難い心が生まれて来る。その難儀が大きければ大きいだけです、やあ今度は百斤の心配であるなら百斤の難儀であるなら百斤のこれによって徳を積むことができるということが分かる。ね、難儀が大きければ大きいだけおかげも大きいと仰言るのは私はそういうことだと思う。「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」と。ね、神徳を積んで長生きをする、神徳を積むことをまず先に考えさしてもらうのが。
 信心させて頂く者の心得であるということをひとつ皆さん心得さしてもらわないかんです。ね、これによって一徳積もうという元気な心をださないかんです。ただその難儀な中から一日も早く楽になりたい、その苦しい事のなかから早く楽になりたい、苦しいものは最後まで苦しい。そうではなくてその苦しいものなら苦しいだけ神様に一心に打ち込んで苦しいことが苦しいことでなくなって来る。
 却って楽しなって来る。そこに我が心で我が身も助ける事になれば、その事によってもう既にそれが神徳になっていきよる、神徳を積んで行く事になる。勿論神徳に長生きのお蔭も約束されるであろう。是が経済の面であったら億万長者になっていけれる徳を積んでいくことにもなるだろう。私は今日は特にね、信心の心得と言う事をです、一遍通り読ませて頂いて、皆さん御祈念しておる間に一遍通り読ませて頂いたんです。
 そしてから本当に有り難いなあ、これだけの御教がね、成程私共は良い人間ではないかもしれん、立派な人間ではないかもしれん、人間としては。ね、けれども段々良い信者氏子になっていきよるなあという印がです、この信心の心得の一箇条が段々自分のものになっていきよるということをです、有り難いとわたしは思うた。みなさん達もこれを一遍読んでごらんなさい。
 自分もおかげ頂いていきよる良い信者に御取り立て頂いていきよると言う事が分かる。そして是でよいというのじゃない、どの一箇条一箇条でも完璧に自分のものにならして頂ける。やはり精進が今後そこにかけられなければならない、と言う事を強く思わせて頂いたその中から、今日はね「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ、我が心で我が身を救い助けよ」という一連しておる、この御神訓を今日頂いたわけですね。
   どうぞ。